NHK, ETV特集で放映された「辺見庸 しのびよる破局の中で」と言う番組をベースとして、「しのびよる破局 -生体の悲鳴が聞こえるか-」という書籍が発刊されていた。番組もみたし、書籍も読んだ。私は記憶力が良くないので、細かい文言は忘れてしまうが、彼が言わんとしていることを考えることはできるし、何となく理解できる。
彼は、ジャーナリストであり、芥川賞作家であると、上記のNHKの番組を見た後、WikiPediaで知った。
番組は、彼の講演会で話し始める姿・・・ゆっくりと水を飲みながら、そして話すのだが、その言葉、一つ一つに力を感じた。そして、書籍を購入し、それが活字になったのを見たとき、驚いたのは、話していた言葉がそのまま文章になっても、「全く」違和感がないことである。この書籍は「生の言葉」で作られているのである。書籍を読んでいると、彼が話している姿をそのまま思い出すことができる。
文章を書くとき、例えば、今、こうしてタイプしているよう場合、少なくとも話している時よりは内省的になり慎重に言葉を選び、そして、書いては消し、書いては消しして、推敲し考察し、誤字はないか、表現に間違いはないか、余分な箇所は無いかを考えながら、また、書いては消し、書いては消しして、そして、終える。彼は、その作業を頭の中で十分に済ませ、話したのだろう。つまり、考え抜いたすえの言葉だったのだと思う。そして、とても大事なことであるが、テクニック以外の伝えようとする主題には、厳しさがあり、真実が含まれていると、直感的に感じた。
その真実とは、正視することが難しい、できれば考えたくない、重いものだ。「それを、克服しなければならない」というスローガンを立てるのは、言葉としては易しいが、そんな簡単なものではないことは分かっている。ちょっと考えれば、そういった安直さは、むしろ、危ういということもできる。
おそらく、生活の中で地味に実践していくしかないのだろう。
私は、(一旦、侵食された体と精神を用いながら)その重さ、厳しさに耐えることができるかどうかを自問している。
よって、重要な点は、そこに入る際に自らを制御できるための何かを見つけ出すことが必要になってくる。
辺見氏の言っていることのすべてが、少なくとも表面的には、私は、すんなり理解でできるし、同意できるし、同感である。全く、その通りだと思う。「狂っているよね?」という問いに対し「はい、私もそう思います」と言えるのである。その「狂っているよね?」という問いかたが、本当に素晴らしいのである。
私は、夜中に目が覚めると、プログラムのサンプルを作ったり、サーバーの設定を見直してみたり、技術情報を読んだり、新しいソフトウェアの評価をしたり、受講者からの質問を思い出し検証を始めたりする。そうすると、朝がくることが多いので、生活が不規則だ。トレーニングで講師を担当しなければいけないときは、時間厳守なので、その不規則なリズムを、どこかで調整して臨まなくてはならない。
今日は、早めに寝なければいけないはずだったのだが・・・、目が覚めてしまった。
村上龍の新しいエッセイ「無趣味のすすめ」を、約3時間で読み終えた。
13ポイントくらいの大きな字で、文字数が少なく、最初、「これで1,200円・・・損したかな・・・」と貧乏根性が働いたのだが、読み終えて、私にとって、とても大事なことがつづられていたと思う。
趣味は、多くの場合、収入を伴わずリラックスした気分で自己充足のために行うものだが、それを人生から取っ払ったときに、残るのは、何であろうか?
自分でも分かるが、最近の私の文章の文体は、かなり、村上龍の最近のエッセイの文体に影響を受けてきている。というか、ほぼ、模倣である。しかし、なぜか、まねしていることに恥ずかしさを感じないのは、氏が本書で述べている文章の「正確さと簡潔性」、そして何より「伝えようとする主題」を持つ、ということに同意してるからで、それを実践すると、こういった文体がしっくりくる。不明確で冗長で、飾りが多い文章を真似ると、後で読み返したときに・・・たとえば、20代のころ、結婚する前の妻に送ったラブレターのような・・・どうしようもない、恥ずかしさがこみ上げてくるのだろう。恥ずかしいとは、それが、本位ではなかったり、余計なものが多いということだ。
彼の小説のいくつかは読んでいるが、エッセイが好きである。「すべての男は消耗品である」から始まり「ハバナモード」等など、女性向けのものを除き、ほとんど目を通していると思う。昔と今とでは、だいぶ変わってきているが、どちらも私を励ます何かエッセンシャルなものを持っていて、それは、何なんだろうといつも考えさせられる。