今日は、グラグラしていた息子の歯を抜いた。子供たちの歯を抜く作業は、数少ない、父親への依頼ごとである。ポイントは、適当な話をして気をそらしつつ、思いっきり、一発で決めることであるが、3人めともなると慣れてきて、難なく、こなすことができた。この要領は、私の父親に教わったものである。
比較的、奥の大きな歯であった。
だんだん、乳歯が無くなってきている。
「年齢」は、生まれてからの経過年数によって、数値的に成長を計る。この時「ハッピーバースデー・・・」と歌い、ケーキをみんなで食べる。(いつも、何か日本語の良い歌は無いものか・・・と思ってしまう)
「身長」は「柱の傷は一昨年の・・・」と歌う。
乳歯が抜けるのも、子供の成長を意味している。
一番奥の歯は、もう少し大人になってから、おそらく、私の知らない所で抜けることになるだろう。
「親知らず」とはよく言ったものだ。
ほとんどの乳歯が抜けたころ、息子がどうなっているか、少々心配でもあり、また、楽しみでもある。
日々の生活は大変で、嫌なことは多いのだが、子供の成長を感じられることは、ことの他、うれしく、凝り固まった心をほぐすのである。
NHKオンデマンドで無料放映していた「沸騰都市 第1回 ドバイ 砂漠にわき出た巨大マネー (2008年5月放映)」を見た。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2009007371SA000/
この中で紹介されていた、世界でもっとも高いビルディング「ブルジュ・ハリファ(ブルジュ・ドバイ)」は、今年2010年に完成したようである。
砂漠の遊牧民が住む、アラブ首長国連邦、首都はアブダビ、都市ドバイのGDPは日本の青森県程度であるとWikipediaには紹介されているが、とても小さい国だ。
この小国が、不動産価値の無い砂漠に超モダンで巨大な都市を構築し、様々な分野で世界一を目指す過程はエキサイティングであった。その象徴であるブルジュ・ハリファを、旧約聖書のバベルの塔に例え、それを人知の愚かさに結びつけることは容易であろう。この開発の果てには失敗が待っているのかもしれないが、おそらく、そんなことは、当事者は覚悟の上であろう。
貧乏な私には、遠い国のように思えるが、しかし、小国が生き残るための世界に対する挑戦には関心を持つ。
運命に逆らうのは人の業なのかも知れない。しかし、その人がもつ意志や画策には興奮させられ興味を覚えるのである。そして、ある世代の築く、その挑戦の精神が世代を越えて伝達するのかしないのか?
遠い国のおとぎ話に、しばし、日常を忘れた。
数日前、BSジャパンのデジキビという番組上での勝間和代氏と西村ひろゆき氏の対談が、ちょっと話題なったようだ。削除される前に、YouTubeで概ね見た。
お互いの話がかみ合わず、意見が対立する場面が多いのである。特に、「若い世代は起業すべきだ」という点については、わかりやすい対立構造だったと思う。女性と男性というジェンダーを軸にすえても良いかもしれないし、規律と自由という対立でも良いかもしれない。先輩、後輩という年齢も対立基軸の属性として上げることができるかもしれない。あるいは、単にその日のお互いの体調が関係するのかもしれない。
これに対して、JMMで冷泉氏がコメントを寄せている。
http://ryumurakami.jmm.co.jp/dynamic/report/title3_1.html
勝間氏は自己実現の重要さを説くし、西村氏は自由を好んでいるように見える。
西村氏のブログを読むと、彼はこの日、寝不足でイライラしていたとのことである。それにしては、彼は、平静を保っていたように思う。私は、寝不足だと人格が変わり、主に短気になり、何度となく失敗してきたように思っている。
私は、YouTubeで、それぞれが話しているのを何回か見た程度で、ひろゆき氏のことをよく知らないし、勝間氏の本を読んだこともない。つまり、お互いのことをよくしらないのだが、この二人の世代について考える。私は、だいたい、このお二人の中間に位置する。
これらの対立基軸は、様々な異なる属性をもつもの同士で、必然的に発生しうるものなのであるが、これをどう越えて、建設的なものを見出し、作り上げていくかが、難しいと思うのである。
これまで、ある慣例、あるいは合理性に基づいて、ある種の社会的構造や秩序が構築されていたが、これは、緩やかに壊れていくであろうと思う。例えば年功序列は、壊れつつあるし、貞操観念も、表面的には壊れてきている。公共という考え方も時代とともに変化してきているし、つまり、従来の価値観は壊れつつあるのである・・・が、では、それを凌駕する価値観が生まれてきているだろうか?
勝間氏の発言は、私にとって堅苦しく、押し付け的に感じ、賛同できない部分もあるが、女性の知的社会進出という観点では非常に大きな社会的変化の象徴的なものだと思う。彼女自身が、アカデミックな論理の世界を出て、実際に起業し、会社を経営するようになれば、さらに彼女の能力が発揮されるかもしれない。
一方、西村氏は、一見、いい加減な雰囲気で話すので、礼儀を欠いているように見えるかも知れないが、彼の態度は今の日本で自らの誠実さを維持(王様、裸ですよと)するための表現技法の一つだと思うし、ブログなどの文章を読む限り、観点は非常にしっかりとしているし、同感できる思索が多い。
それらを、内包しつつ、日本を、今後、どの様に進めていくかの舵取りを、今の30代、40代は担っていかなければならないのである。
対立を避けていては新たなものは生まれないし、対立してばかりでも前へは進まないのだ。
今は、ある種の能力を持った人たちの発言が目立っていて、それを、傍観している人が多いのだと思うが、いずれにしても、あるタイミングで、個々人が決断し、動く時期がくるのではないかと思うのである。
傍観して評論しているだけの何もしない態度が得をするというのも、フェアではないと思うのだが、どうだろうか。
DVDを借りていたのだが、なんとなく見る機会を逃し、今回、きちんと観るにいたった。
ある実話をモチーフにしたフィクションであり、是枝裕和(これえだ ひろかず)監督が作成した2004年の映画である。
監督を知ったのは、VideoNews.com ( http://www.VideoNews.com)というサイトのインタビュー(というか対談 http://www.videonews.com/charged/on-demand/451460/001326.php#profile_lin... )がきっかけで、このDVDを借りていたのだが、この際見てみようと思ったのは、このインタビューを見てからである。
そのある実話とは、出生届が出されていない子供たちが小さなアパートで暮らし、最終的には、母親も戻らなくなり、そのうちの一番末の女の子が死んでしまい、明らかになるという事件である。真相は、あまり詳しい資料が無いようである。
Wikipediaで、このモチーフとなった実話を追うと、この映画と異なる点が多い。たとえば、生後まもなく亡くなった乳児の存在は触れられていない。だから、実話と映画を混同するのは良くないと思いつつ、しかし、監督のメッセージは大事だと思うのである。つまり、事件としての詳細を追うだけでは見えてこないものもあり、フィクションとしてつづられるメッセージ性を、商業の映画として美化されてしまう危険性に配慮しつつ、我々にとって重要な点は何なのかを見つけ出す糸口になると思うのである。
この事件を、当時、ニュースや、週刊誌、テレビなどマスメディアがどう報じたかは、おおむね想像できるし、是枝監督自身もこのDVDについてくる、(きわめて誠実な)演出ノートにも書いているとおり、そのマスメディアの報道に疑問を投げかけていた。
メディアは、母親の無責任さ、いい加減さ、などを責め、そして、母親は「責任感を持たなければいけない」というスローガンを作ったり、「そうあってはいけないよね」とか「青少年保護の重要性」を述べ、何らかの制度の必要性をあげ、それを読んだ読者、つまり、大衆は、とりあえず、日常生活に戻る。いくら、メディアがニュースとして報道し、その母親の責任感の無さを責め、大勢の人がその情報に触れたからといって、結局のところ、本当の子供たちの経験を「誰も知らない」ままなのではないかと思う。
肥満と貧困:
http://www.knowd.co.jp/yamazaki/index.php?q=node/204
に、追加である。
「レストラン」の語源は、「回復させる」「元気にさせる」等からきているらしい。
つまり、たくさん食べる人は、ちょっとやそっと食べても元気にならないので、量を増やすのだろうか。
ごくごく、たまにであるが、非日常的に高価なものをいただく機会がある。
「肥満」という言葉自体が、ある種差別的な意味合いを含んでしまうかもしれないが、私は、太っている人が、何か劣っているものがある、とは、全く思わない。体質もあるだろうし、自然が一番だと思う。
肥満と貧困、を並べると、何か別の恣意性が感じられ、なんとなく嫌な感じがしてくる。
「安価なジャンクフードばかり食べるのでそうなる」という説らしい。
私が子供のころ、「インスタントラーメンばかり食べていると、目が見えなくなる」とか、「コーラを飲むと骨が溶ける」と言われていた。
現在、コンピューターで映像を視聴する場合、主にAdobe Flash、Microsoft WMV、Apple Quick Time、Oggなどが使われているのだろう。
インターネットではYoutubeで使用されているFlashが、Linuxを含むすべてのプラットフォームで視聴でき守備範囲が広い。しかし、FlashはApple(Macromedia)のプロプライエタリな技術製品である。かなり広範囲で使用されているが、例えばAppleのiPhone, iPadのSafariがそれをサポートしないなど、ベンダー間での軋轢がちらほら見える。
AdobeのCTOがFlash擁護 「HTML5があればFlashは不要」論に反論(ITMedia):
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1002/03/news057.html
FlashはWindowsと同様、非常に多くのユーザーに使用されているがプロプライエタリでありオープンではないため「スタンダード」とは呼ばれず「よく使われている技術」の一つである。
私がWindowsを使う状況の一つは、映画や動画、音楽を視聴するためだが、それは、配布されているコンテンツのフォーマットがWMVやQuick TimeやMP3だからであり、それ以外のコンピューティングは主にLinuxを使用する。Linuxはメディアのハンドリングが弱いが、それはコンテンツのフォーマットがプロプライエタリであり、Linuxのコミュニティは基本的にそういった独占的な技術を使わない。
最近、Linuxを使いながら、机の脇にiPhoneを置いて作業をするようになったが、音楽を同期できないという致命的な点(つまりiTunesが必要で、MacかWindowsが必要だということだが)を除くと、案外心地よい環境である。最近発表されたiPadはどのような環境と経験を提供するのは定かではないが、おもしろい状況が生まれるような気がする。つまり、現在、あらゆる「知的活動」や「欲望」をすべて1つのコンピューターに詰め込もうとしているが、これをいくつかに分けたようなユーザー経験のデザインはおもしろそうなのである。これは、また、別の機会に考えたいと思う。
クラウドコンピューティングという言葉が流通している。
これを、単なるバズワードとして片付けたり、よくできたキャッチコピーとして感心して見せることもできるが、いずれにしても、その言葉がリアリティをもってイメージできる状態にはなっているのは間違いないと思う。
私にとって、この言葉の技術的な裏づけを調べるのはあまり面白い思索ではない。むしろ、この言葉が、ある程度説得力を持ち、現実味を帯びている現象のほうが興味がある。
クラウドのイメージは、「電波」や「放送」に似ている。つまり、テレビやラジオ、および新聞などのメディアを置き換えるかのような印象を与える。テレビをコンピューティング環境に置き換え可能かどうかをイメージしてみることは面白い思考シミュレーションだ。
たとえば、テレビは、スイッチを入れるとたくさんの情報を得ることができるし、楽しめる。このメディアはスポンサーシップに支えらながら、少なくとも数十年、私たちの情報源となり、娯楽を提供してきてくれた。
イギリスでは、受信料を支払わなければ、テレビを見れないらしいのだが、日本の民放は「無料」で、特に面倒な操作を必要とせず、ニュースや映画、バラエティー番組にアクセスでき、日常的にそれを利用してきた。テレビはまさにクラウド的だといえなくも無い。
いうまでも無く、現在のコンピューターの機能性と処理能力はテレビを上回っているし、拡張性が高いし、何より重要な機能は、「コンテンツを作成し、開発し、発信できる」点だ。この機能は個人の創造性を発揮でき、きわめて大きな利点だ。
考えてみるとテレビと放送のシステムは誰でも使える良くできたテクノロジーだと思うし、優れた番組もたくさんある。が、テレビがいかに高機能になったとしても、この「コンテンツ作成能力」や「プログラム開発実行機能」をもてなければ、双方向性は生まれないだろう。そして、一方向の少数の組織が発信する情報の流れだけでは、もはや私たちは満足できなくなってきていると思う。人間は良くも悪くも欲望する生き物だ。そして、人間は進化し変化でき、状況に適応する。
そして、もし、クラウドがクラウドとして機能するためには、こうした端末から発信させるコンテンツを受け入れることのできる能力が求められ、必然的にオープンであり、カスタマイザブルであり、必然的にスケーラブルで無くてはならない。
インターネット+コンピューターテクノロジーが、電波+テレビを包含するには、まだ時間がかかるとは思うが、おそらくいつかそうなると思う。
テレビのように簡単に情報にアクセスできるコンピューター端末やアプリケーション、および、見る価値のあるコンテンツが増えることで、電波に変わるクラウドが実現することになると思う。
そのとき、私たちは今より充実した生活が営めるようになるだろうか?
双方向性からくるオープン性を損なわない限り、楽観的だ。
なんと、青森県のねぶたが、原宿、表参道をねり歩いたとのことである。
http://www.asahi.com/national/update/0123/TKY201001230260.html
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012301000580.html
http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20100110ddlk13040140000c.html
今年開通予定の青森までの新幹線開通を記念してとのこと。
偶然見かけた人などは、さぞ、驚いたのではないだろうか?
日本でもっとも「おしゃれ」な表参道を、日本でもっとも田舎でうまれた「じょっぱりの美意識」が堂々とねり歩く様は、さぞ、痛快であったろう。
・・・という、回りくどい言い回しは、今年からやめようと思う。人生は短い。
最近テレビを見なくなってきた理由は、とても単純で、インターネットのほうが有益な情報が得られる可能性が高くなったからだ。インターネット上のサイトには、良質なものが増えてきている。これは、必ずしもコストに比例していないように感じる。ローテクでも興味の引くものはたくさんある。
中には、ネットでは得られないような質が高く、面白く、そして高い集約度の番組もあるので、それらは大歓迎であるが、時間的拘束によって見逃す確立が高いようである。
リビングを眺めると、妻も、娘も、息子も、あまりテレビを見ていない。
我が家はいまだ、低解像度の一世代前のテレビだが、テレビの解像度が上がったとしても、コンテンツ自身が面白くなければ状況は変わらないと思う。
インターネットで、ビデオ画像がオンデマンドでダウンロードできるようになってくると、「忙しい生活の中で、放映時間に合わせながら、途中で番組をさえぎって大手企業のCMを見せられ、一時停止もできず、内容を調べながら、ゆっくりと考えながら何度も検討することができない」メディアは、なんというか、拘束が強く、非常に隷属的な気持ちにさせられるのである。
活字は、少なくとも、ペースを自分で決めることができるし、興味の無いことに対し無視が容易であるため、そんな気分にはならない。
何に隷属させられているのか?
一方向的なテクノロジーの性格だけが原因ではなく、番組自身もつまらなくなってきているように感じる。
映画は、テレビに比べると、まだ、面白いものが多い。