さらば宇宙戦艦ヤマト(DVD)を観た。

私が、小学生の頃・・・だから今から30年ほど前、まだ、祖父と祖母が生きていた頃である。私は、祖父と祖母のことがとても好きであった。私のことをとても可愛がってくれた。
その祖父と祖母は、戦争を経験しているはずなのである。そのことに関しては、ほとんど私に語らなかったが、しかし、私は、すさまじい時代を命がけで生き抜いてきたのだろうな、と何らかの情報と雰囲気で想像し、感じていた。

私たちの祖父、祖母のみならず戦中を生き抜いた世代の恩師たちを含む老人たちには、何らかのにおいを感じていた。それは、戦争という狂った時代の中で「生き抜く」ことの難しさと大事さを理解しているような気がするのである。それは、きわめてシンプルなことなのだが、何より重要な原則である。彼らが、子供だった私を抱きしめるとき、それは「命」を抱きしめている。

その後、私たちの父親や母親の時代、つまり、戦争が終わり、高度成長を支えてきた現在60代前後の、なんというか「団塊の世代」の人たち(こうやってひとくくりにすることは単純すぎるとは思うが)の時代を被っていた時代の雰囲気は、どんな感じだったのだろうか、と考えると、「敗戦」という日本的な威厳が破壊された後の目標は、社会基盤の整備、経済発展だったのではないだろうか? これらの目標は、奇跡的に達成され、日本は生きていくために必要かつそれ以上に豊かな文化的健康的な生活を、多くの人が享受できるようになった。これは、すばらしいことだと思うし、父親や母親を含む、その世代の人たち、その世代の日本に対し、とても感謝している。一億人を支えるための、電気、ガス、上水道、下水道、通信網、交通網、衣、食、住、あらゆる社会基盤を整備するのは、並大抵ではなかったはずである。

近くのコンビニエンスストアで売っていた、「さらば宇宙戦艦ヤマト」は、高度成長期を敗戦の1945年からバブル経済破綻の1995年の間であるとすると、大体その中間よりちょっと後の1978年の作品である。当時小学生だった私は、この「さらば宇宙戦艦ヤマト」のレコードを持っていて、よく、レコードプレイヤーで聴いていたせいもあり、約30年ぶりに映画をDVDで観たにもかかわらず、その台詞と音楽、一つ一つを記憶していたことに驚いた。三つ子の魂、百まで、とはよく言ったものである。昔、住んでいたた今はもう無い、あの頃の家や、祖父、祖母を思い出す。つまり、ノスタルジーに十分浸ることができた。

30年前のこの作品では、現代の日本では捨て去れた何かが思い出される。

それは、「全体のために個を犠牲にする」ということだと思う。そのことが、個の幸せであると・・・
ヤマトの乗組員は、ヤマトのために、何のためらいも無く、誇りを持って命を投げ出し、笑顔で死んでいくのである。

この考え方は、戦中の軍国主義に利用されたり、悪しき管理教育に利用され、全体主義的な方向性を増長させたので、現在では、全体より個を重んじることが是とされているように感じる。ある意味、カルト的であると言われるかもしれない。学級委員長が「全体のために・・・」とか「みんなのために・・・」と口にした瞬間、独善的であり、おせっかいな感じがしてしまい、そういった熱さは、周りからはうざったく、疎んじられることが多いのが実情であろう。実際、大体において、押し付けがましいことが多いのである。

しかしながら、自分の大切な人のために、また、大切なもののために、自らを投げ出す、という献身の精神は、人間どこかに持っているものでもあり、それ自体はとても崇高なものだと思うのである。たとえば「仕事」は、私有財産や生活費を稼ぐためだけの活動ではなく、社会的な役割を全うしたい、という思いもどこかに含まれているはず、あるいはべきであると考える。社会主義的だとか、共産主義だとか、表現されるのかもしれないが、あまり、思想的なカテゴライズや、単純二元論や、対立をあおるようなことはしたくない。あくまで、個人が何を幸せと感じ、いかに自分の人生を歩むかの話である。

私は、今、親になった。

そして、人生の折り返し地点に入り、これから生きる時間よりも、振り返ることのできる時間のほうが長くなった。

この映画を30年ぶりに観かえして、自分が子供だったときと、今とは何が変わったのだろうか・・・という思いにふけっている。

さて、映画のほうだが、敵が強くて、迫力がある。
現代のアニメーションの技術と比べると、比べ物にならないはずなのだが、ヤマトの敵である白色彗星、都市帝国、巨大戦艦は、これはもう絶対勝てそうに無いのである。

絶対勝てない相手に、立ち向かう、これも、戦中の記憶から、現代では「ご法度」である考えかただ。「頭が悪い、馬鹿か、ありえない」で一蹴されてしまう。だから、最初から戦わないほうが良い、あるいは、絶対勝てると情報を得た後に戦うことになるのだろう。それでは、崇高さもロマンも美しさも栄光も、切なさも無いのである。絶対勝てる戦い、そのようなものは果たして価値があるものなのだろうか?

平和な世の中にあって、戦いは、想像の中か、ゲームでしかない。戦うことにあまり現実感を感じなくなってきている。
受験戦争とか企業戦士とかいう言葉は、何か、大げさだし、こっけいで馬鹿っぽい安っぽいマスメディア用キャッチフレーズだ。
現在において、「何が敵なのか」を想定すること自体が難しく、プレデターのように透明で、実体が無く、ゆえに、人間の持つ攻撃性が間違ったほうに向いてしまったり、自分を傷つけているのかもしれない。

現代は「見えない敵と戦っている」時代なのかもしれない。

ヤマトの敵は巨大で、勝てない相手であると知っていながら、それでも戦う。そして、たくさんの同志が死んでいく。

そして、最後、守るべき地球を背にして、その巨大な敵に単身立ち向かうヤマトが、どうなったかは、明確には表現されていない。
キラッと、星が光って終わりなのである。

小学生の、それも低学年のときに、これを見せられた私は、何を考えていたのだろう・・・
野球ばかりしていたあの頃の私に会って、聞いてみたい・・・

「今の私は、お前にはどうみえる?」

答えは、大体想像できる。

もっと、ちゃんと生きねば。

明日は、子供たちが学校で作った作品の展示会だ。